2016年3月16日
地図資料「別紙(3)」について
NPO法人 被災者支援ネットワーク・東北ヘルプ
事務局長 川上直哉(牧師・神学博士)
1.
この資料は、「脱被ばく・子ども裁判」(原告ら訴訟代理人:弁護士 井戸謙一
他18名、被告:福島市・川俣町・伊達市・田村市・郡山市・いわき市・福島県・日本国、平成26年8月29日提訴)の平成28年2月25日第4回口頭弁論
において証拠採用された「訴えの追加変更申立書2」の「別紙(3)」である。*1
2.
この資料は、「原子炉等規制法61条の2第1項、第3項」に従い環境省が定める「クリアランスレベル」(甲A第49号証)を超える土壌汚染地域の広がりを、文科省が2012年末までに行った調査*2 から、図示したものである。
3.
従ってこの地図は「放射線による障害の防止のための措置を必要としない」(原子炉等規制法61条の2第1項、第3項)レベルを超えた地域が2012年末時点でどう広がっているかを示す、公的な資料となる。
4.
現在、関東にまで広がっている原子力災害は、矮小化され複雑化している。結果、被災者は個別化し、所謂「世間」(社会の多数派)の支援を得られない状態
にある(次頁以下資料を参照されたい)。立憲政治が取り戻されなければ、そうした被災者はどのようにして社会的救済を得るのだろうか。
私が「民間立憲臨調」に賛同し発起人の末席に名を連ねた所以はここにある。
*1 「訴えの追加変更申立書2」のすべては、http://fukusima-sokaisaiban.blogspot.jp/2016/02/blog-post.html に公開されている。
*2 文部科学省 「第6次航空機モニタリングの測定結果」(平成24年10月31日~12月28日の調査)」http://radioactivity.nsr.go.jp/ja/contents/7000/6749/24/191_258_0301_18.pdf
資料
2016年2月19日 岡山県和気町 避難者・保養者交流会 記録
日時:2016年2月19日 午前10時~午後3時
会場:日本基督教団和気教会
主催:せとうちYMCA
記録:川上直哉
千葉県から保養中のAさん
千葉県内の東葛地域で看護師をしていた時に被災した。患者さんに起きている異変に気づき、就職後半年であったけれど、保養にきた。輸血が必要なほどの貧
血があっても、病院では「原因不明」とされる。スタッフにも、目が赤い人が何人もいた。スタッフの知り合いの子供の一人は、当時2歳ころだったけれど、け
いれんを起こして、人工呼吸器を必要とした。別のスタッフ仲間は、震災後生まれた子どもがいたのだけれど、その子供は肺炎を起こし、けいれんを起こし、経
管栄養となっていた。20代後半の別のスタッフは、咳をしただけで肋骨を骨折した。そうしたことの積み重ねがあって、異常を感じ、怖くなった。しかし他の
スタッフは、医者も含めて、おかしいと思わなかったようだ。患者にも話してみたが、耳を貸してくれる人はいなった。主人も、汚染は認めるが、子供への影響
については懐疑的だった。自分は大丈夫だと思うので、子供たちは保養にもいかなくていいと。でも、私は保養を強行した。義理の両親は、「カルトだ」とか、
「東京ではヒバクなんて言わない」と言う。他の人も、福島には人が住んでいるんだから、関東だって大丈夫だと。マスコミは報道してくれない。調べない人
は、洗脳されていると思う。そう言うと、自分が洗脳されているといわれる。岡山で三田医院に行き、異形リンパ球が出、好中球が少なくなっていた。
東京都から母子避難中のBさん
東京から来た。2011年3月12日に、後頭部とリンパ節が痛み始めた。ネットで情報を取り、3月18日までは外出を控えた。そのあと散歩に出ると、子
供が泣き始めた。空気がおかしいと思った。3月30日に新潟に避難した。自分の体重が5キロ減ったので、夫が送り出してくれた。新潟で右の奥歯が膿んで、
骨が変形していたので、抜歯した。ほどなく帰宅して、東京で普通に過ごしていたのだけれど、娘が手足口病となり、肛門まで湿疹が出た。病院では、「こうし
た症状は初めてだけれど、今年はこうしたことが多い」と言われた。
2011年5月に土を調べた。北区で、500ベクレルあった。そのあともネットを調べていたら怖くなってきた。それでも、母子で避難することは難しかっ
た。山形の理研で尿を調べると「0.18ベクレル/2kg」だった。30日で体内のセシウムを輩出できると野呂美香さん(チェルノブイリ被災者支援団体責
任者)に聞き、水が汚染されていることを思って、2月からウィークリーマンションで岡山に避難した。3か月の岡山の保養で、戻ってみると、セシウムの検出
がなかったこともあり、離れることに意味があると理解した。東京に戻ることが怖くなっていった。夫とは話が合わなくなり、改善するために長野の松本に住め
ないかと検討してみたが、野原で巨大なタンポポを見つけて怖くなった。結局、2013年から岡山県和気町に母子避難して現在に至る。
東京都から母子避難中のCさん
当時息子は3歳だった。津波の映像を見せたくなくてテレビを見せず、パソコンも具合が悪くて見られなかった。ケータイには「パニックを防ごう」という
メールが流れてきた。その時は23区内にいた。地震が怖いということで、みんなで公園に集まった。23区で水が駄目になった3月21日、お茶をもって公園
に遊び、久しぶりにテレビをつけると、1歳の子供に水を飲ませないで下さいとアナウンサーが言っていた。目の前が真っ暗になった。備蓄もなく、その水を使
うしかなかったのだ。今でも、あの水を使ったことを後悔し申し訳なく思っている。次の日の開店前にスーパーに行った。長蛇の列だった。一人一本しか、水が
買えなかった。乳飲み子を抱えている人もいた。申し訳ないと思った。あの時、心を鬼にして、子供と一緒だと主張して二本買えばよかったと、今でも後悔して
いる。
北海道に避難しようとしたが、周囲から大反対された。親戚の叔父からも叱責された。そこで挫けた。雪国に行くことが怖くなった。次の年、夫の実家のある
愛知へ移住しようと思った。しかし、義母に反対された。「福島の人はどうなるのか」というのが反対理由だった。そうして名古屋もあきらめた。結局、暖かく
なってから10日間の北海道への保養に出ただけだった。そのころ、がんだった父の数値が急に悪化した。それで父の看病をしなければならなくなった。息子を
幼稚園に入れる年だった。父は夏に亡くなった。その夏、徳島のシェアハウスへ行こうと思っていたけれど、葬儀でキャンセルした。結局保養にも行けず、動け
なかった。ノイローゼになりそうになった。食べ物を選ぶのに大変な努力をし続けた。息子の幼稚園には放射能への意識がある親がいて、協力し合えた。精神的
におかしくなってきた。徳島に母子で移住している人がたくさんいたことを知り、2013年1月に徳島へ二週間行く。その保養先で知り合った人から、「検査
で数値に出さないと男は納得しない」と言われた。それで、甲状腺の専門病院で有名な伊藤病院へ行った。すると、問診もしないうちに、数値が高くても心配す
るなと言われた。「だいじょうぶ」と前置きをしてから、検査をした。子供の数値は、小児科でないので、わからない、と言われたのに、甲状腺機能低下症とい
われた。投薬治療をするという。それで三田医院へ行き、その検査結果を踏まえての診察をしてもらった。子供については、投薬治療は要らないという診断と
なった。もっと気にしなければいけないことがあると言われ、それは、白血球と好中球の数値の悪さだった。また、自分の白血球の数値が悪かった事も分かっ
た。それで西への移住を勧められた。
夫は、事故の年と違って、「もう気にしなくていいじゃない、今更」と言ってきた。でも、息子の幼稚園では、喘息だった子供は入院回数が増え、冬には手足
口病がはやり、紫斑病も多くみられた。東京の小学校に息子を行かせられないと思って、岡山の移住相談会へ行った。お試し住宅へ応募した。それでも落選する
かもしれないと思って、和気町のシェアハウス「安らぎの泉」に来た。東京都水道局では870ベクレルの汚染が表示されていた。人間が安心して住める場所で
はないと聞いた。世田谷の息子が行くはずだった小学校では3か所除染していた。「子供を守る会」をお母さんたち立ち上げ、行政を動かした結果だった。
2012年3月に、母子で移住した。今、76歳の母が、だるくて起きられなくなった。死にたくなるほどつらいと。姉は、湿疹がひどくなっている。友人の
母親もそうだという。川崎にいる叔父は、丹毒になった。大きな休みのたびに、母の世話をしに、東京に帰っている。みんなで移住できたら気楽なのに。「いい
加減、東京に帰ってこい」と言い募る夫は、震災後、白内障が一気に進んだ。病院では、「あの程度ではありえない」と言われた。放射能にやられた症状は知ら
ないはずなのに。
東京都から母子避難中のDさん
東京都23区内で、3歳、6歳の息子二人と被災した。下の子が地震を怖がっていた。15日に三号機が爆発した映像を見て、新幹線で大阪に逃げた。不思議
なくらい駅が静かだった。赤十字の人、外国人、子連れの人、がたくさんだった。大阪に3月いっぱいいた。ドイツに10年留学した経験を持った人が息子の幼
稚園の園長だったので、家族を守ることが園の方針となっており、大阪にいることに理解を示してくれた。日常品を大阪から東京へ送り続けた。
幼稚園の再開に合わせて東京に戻った。園は放射能の問題に理解を示し、砂場の砂は全部入れ替え、麦茶は全部ペットボトルとし、食べ物も計り、雨からも守ってくれた。その幼稚園にいる間は大丈夫だろうと思った。
2011年9月、便秘症だった下の子が意識不明になった。低血糖だといわれ、血糖値39だった。点滴ですぐに戻る。その半年後、また倒れた。二回もある
ことは異常だから、と、検査をした。甲状腺機能低下症だった。治療を始めると、一生ホルモン剤が必要になると言われた。生後すぐにあらゆる検査をしていた
ので、先天性の異常ではなかったと証明できる。ともかく、どこに行こうかと非難場所を探すことになった。園長先生が守ってくれる幼稚園を卒園となり、小学
校では牛乳については福島のものを使うことになったと通知が来た。夏休み、徳島で保養をして帰ると、長男は、三日連続で鼻血を出した。夜で、シーツいっぱ
いに鼻血が飛び散った。夫と話し合い、10月に岡山へ引っ越し、病院で検査を続けると、次男は、どんどん良くなった。病院は完治を宣言した。
2000人の夫の会社について、気になることがある。健康を理由とした退社は、震災以前は全国で年間一人程度だったのが、関東で一人程度となった。それを知った夫は、恐怖を覚えて、退社を決意した。
千葉県から母子避難中のEさん
息子が二人。千葉県内東葛地区で被災。長男(中学生)は今、治療の為に千葉のがんセンターに通っている。
震災前からの病気のために、自分に手術が必要で、震災後の混乱を避けて、実家のある岡山で手術を受けた。そのあと、自分が住んでいる場所がホットスポッ
トだったと知り、そのまま、岡山に残った。「政府が丈夫だというのに、何を言っているんだ」と親に言われ、「宇宙に逃げたらどうだ」と親戚に叱責され、福
島にボランティアに行った親戚とは仲たがいとなった。夫とも別れたいと思って、離婚の調停に入り、親権をめぐり争いとなり、和気の教会施設に身を隠してい
た。長男は荒れてしまった。下の子は幼稚園には行きたくないとなる。長男は戻りたい、友達に会いたいと。「死んでもいいから帰りたい」と。「お母さん捨て
る気か」とやり返してしまい。「父さんがかわいそうじゃ」と言われ。結局、一人で5年生の時に、長男は千葉県に帰って行った。
診療内科を進められ、すべてを話したら、自分が鬱で子供は発達障害だと診断された。調停から裁判になっている段階になると、「病院がつぶれるからもう来
るな」と言われる。その後、起きられない状態になり、学校に行かせていないのは虐待だと行政が言ってきた。ここ(和気教会)にいれば、仲間がいる。でも、
ここにいられないと思って、岡山市内に移った。不登校児が多いので、施設などもあると聞いたので。下の子は結局アスペルガーであると診断された。この震災
は、私の心を押しつぶした。まだ幼い長男が「死んでもいいから帰る」と言って千葉県で父親と住んでいる、という現実。日本の政府は大丈夫だという、それが
つらくなる。普通に暮らす人々。でもこうしたことに気付いた私たちは、これからどうしたらよいのだろうか。ここにいれば、話を聞いてくれる仲間がいるけれ
ど、今一人っきりで、育てている下の子供も不安定で、苦しい。子供は、まだ文字もかけない。読むことも苦手で、9歳になっている。一日中暗い部屋に閉じこ
もり、皮膚過敏で裸で過ごしている。どうしたらよいのか。今、フリースペースという団体が訪問してくれる。90分毎の、有料である。20分も外出すると、
息が上がるほど苦しむ。しばらく暴言・暴行がひどかった。親プログラムに参加して、少し治まってきた感じがする。和気教会が孤立を防ぐ場となっている。
北関東から母子避難中のFさん
原発から180キロ離れているが、調査重点地域となっている地域から移住してきた。地方議会で議員をしていた。行政は事故対策をせず、放射性物質の飛来
を認めなかった。父兄が事故の後、学校の放射線量を計ってほしいなどと要請しても、半年後に、給食の一部を計るふりをした。そしてその情報を隠した。群馬
県産のホウレンソウやカキナが流通制限となったけれど、群馬県の緑農協の理事長は、それを配った。議会から働きかけても、動かず、隠ぺいした。焼却処分も
どんどん進めた。焼却灰を図ると、8000Bqを超えていた。行政は対策をしているというが、ブルーシートをかけただけで情報公開もしなかった。
献血の車を見て、「その血は安全か」とネット上に発言したら、「福島差別」と炎上し、議会の多数決で議員を罷免された。その後、娘と一緒に岡山に避難して
きた。鼻血を出していた。息子に、甲状腺の数値に異常が出た。夫と息子はまだ北関東にいる。良い友達がいる、ということで、息子の手を放してしまったこと
が、自分の最大の失敗である。三田医院に診察してもらっているが、好中球減少症の疑いがある。長男にはアレルギーもでる。皮膚疾患も出てきている。しか
し、移住してくれない。進路を決める時期なので、こまめに北関東に戻って説得しようと思う。
(了)
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