力の父性文明から和の母性文明へ ──トインビーの予言

平成23年4月15日

地球システム・倫理学会理事
村田光平
(元駐スイス大使)


(はじめに)

 このたび日本を見舞った未曾有の大震災と福島原発事故は、自然に対する科学技術の限界を思い知らせるものでした。日本のみならず世界に人間の生き方の変 革を迫る「母なる大地」の警告だと考えられます。既に見られだしていた現在の力の父性文明を和の母性文明へ転換する母性文化の潮流は大きく促進されて行く ものと思われます。

 トインビーは、歴史の流れが平等と統一を目指すとしておりましたが、オバマ米大統領の登場を契機とするこのような潮流の誕生を予言したものと言えます。

 日本はついに民事・軍事の双方で原子力の犠牲国となりました。日本は悲劇の再発を防ぐために、今や自国のみならず世界が脱原発に舵を切ることを世界に訴 えて行く責務を負うに至りました。この責務を果たすことを通じて母性文明の創設と民事・軍事を問わない核廃絶の実現に貢献することこそ今回の不幸を無駄に しない唯一の方法だと確信いたします。

1.トインビーから受けた影響

 このたび「トインビー・地球市民の会」の吉澤五郎先生より講演と寄稿のご依頼を受けて、私がトインビーから受けた影響につき思いを巡らせましたが、その 大きさに驚きました。先ず思い出されるのは1960年の外交官2次試験の英語での集団討論で「歴史の流れは平等と統一に向かっている」という一句を引用し たことです。これは後述の通り、母性文化の潮流そのものです。
 学生時代は人道主義と平和主義を軸とする理想に燃え、東本願寺の「仏教と平和」というテーマの英文懸賞論文に応募し受賞しましたが、その中で平和実現の ためには「人間性の準変革(semi-transformation)」が不可欠と主張したことだけを覚えております。50年経ってこの考えが進化して、 紛争の解決には「母性思考形態」が不可欠であると学生時代よりはより現実的に主張するに至っていることに感銘を覚えます。

 1997年にマレイシアからアジアの金融危機が発生した当時、スイスに勤務しておりましたが、私はこの危機が文明の危機であり、苦しい文明の再調整期が 始まるとの見解を述べ出しております。そして外務省を引退後、2001年に拙著「新しい文明の提唱―未来の世代へ捧げる」を出版し、倫理と連帯に立脚し、 環境と未来の世代の利益を尊重する新しい文明を提唱しました。現在は力の父性文明から和の母性文明への転換を内外に訴えております。このように文明の視点 でものを考えるにいたったのは、今にして思えば無意識にトインビーの影響を受けていたのだと思われます。

2.母性文化の着想

 2008年の北京オリンピックの開会式で、2008名のダンサーが見事に描いた「和」の字を見て、「和」の精神を重視する日本の「母性文化」が日本のみ ならず、アジアにおいて広く共有されるものであるとの認識を新たにしました。たまたま、2008年にはオバマ米大統領の登場により競争と対立を特徴とする 父性文化から弱者への思いやりと連帯を基本とする母性文化へと国際的潮流の転換が看取され出しておりました。

 その頃読んだダートマス大学教授Noel Perrinの「鉄砲を捨てた日本人」は母性文化への関心を一層深めさせるものでした。同書は織田信長が作らせた鉄砲の数は当時欧州のいかなる国のものを も上回っていたが、徳川家康が鉄砲を実質的に廃止したことは大規模な軍縮の先例であると述べております。火薬は江戸時代に花火の技術開発に昇華されたとの ことです。このようなことを可能にしたのは日本の母性文化であるとの確信が同書を読んで深まりました。これが別添の父性・母性両文化の特徴の比較表を作成 した背景です。

3.トインビーと母性文化

 この比較表に母性文化の特徴として挙げられている連帯、調和、協調、対等、共生などを見ればトインビーと母性文化との深い関係が浮き彫りにされます。文 明の対等性をはじめ文明の同一性などの諸主張には母性文化が認められます。その裏付けとして特記されるのは「人類は母なる大地を殺すであろうか。もし仮に 母なる大地の子である人間が母を殺すなら、それ以後生きることはないであろう」というトインビーの言葉であります。

 上記の「歴史の流れは平等と統一に向っている」との指摘は、オバマ米大統領の登場を契機として破局に人類を向かわせる力の父性文化の潮流が連帯と調和の母性文化の潮流に転換され出している今日の状況を見事に予言しているといえます。

 この点に関して欧州連合の父といわれるクーデンホーフ・カレルギー伯の母親が日本人であることが想起され、地域統合と母性文化の関係、さらには南北文 明、東西文明の遺伝子を受け継いだ出自(オバマ大統領とクーデンホーフ・カレルギー伯)と母性文化の関係が浮き彫りにされます。

4.父性文明から母性文明へ

 世界が直面する危機は経済危機でも金融危機でもなく文明の危機です。その根深い原因は世界的に蔓延した倫理の欠如であります。未来世代に属する資源を濫用し、永久に有毒な廃棄物及び膨大な債務を後世に残すことは倫理の根本に反します。
「自然を統御し支配する」という力の父性文明は破局に人類を向かわせております。すべての民族が、そして人間と地球が共生する和の母性文明の創設が待たれ ているのです。オバマ米大統領が先頭に立つ新しい母性文化の潮流は人類と地球を守るという歴史的役割を担うものと言えます。

 このような状況の下で、新しい文明を先導する指導者の役割がますます重要になります。
 歴史を振り返りますと多くの偉人がトインビーのように母性文化の特質を備えていたことに思い当ります。非暴力主義のガンジー、生命への畏敬を説いたアル ベール・シュヴァイツァー、貧しい人々に愛をささげたマザー・テレサなどが頭に浮かびますが、特に注目されるのはチャーリー・チャップリンです。その映画 「独裁者」(1940年)の中の次の言葉は印象的です。「我々は考えすぎて感じることが余りにも少ない。我々が必要とするのは機械よりも人間愛であり、利 口さよりも優しさと思いやりである。」

 世界的に「エリートの挫折」が言われ出して久しくなります。これは知性偏重に由来するもので、真の指導者には人類と地球の将来を考える感性と思いやりが 不可欠と言えます。このように感性と知性のバランスのとれた人材を私は「グローバル・ブレイン」と称して。その存在が社会の上層に限らず、すべての分野に 求められることを主張しております。
 世界的に取り沙汰されている「エリートの挫折」は知性偏重の競争主義に反省を迫るものです。

5.紛争解決に不可欠の母性思考形態

 倫理、連帯及び思いやりを基本とする母性文明の創設は世界に現存するすべての紛争を解決するための鍵であり、「核兵器のない世界」のヴィジョンの実現に 不可欠と言えます。これまで3年以上にわたりその必要性を内外に訴えて参りましたが、重要な成果がありました。それはすべての相違、対立を父性文化と母性 文化の両文化の違いに凝縮することにより、宗教、文化及び文明間の対立を回避することが可能になるということが確認できたということです。

 一例として、右派と左派の間の政治的な対立さえも包み込むことになることは、2年前の欧州での選挙で示されました。同選挙では各国で右派が大勝したので すが、その政策は左派のものより弱者に配慮した母性文化的なものでした。左右対立は政治的ですが父性・母性対立は人道的で階層対立の回避を可能にすると思 われます。

 幅広い内外への発信に対しどこからも反発を受けなかったのは、すべての宗教と文明が母性文化の要素を備えているからだと思われます。世界を脅かす紛争の解決には父性思考から母性思考への移行が不可欠であるとの認識が深まりつつあるのが看取されました。
 ただし、そのために求められる移行とはあくまでも思考形態のみに関するものです。文化の多様性の尊重は今や国際社会の大原則として確立しているからで す。このような思考形態の移行の可能性は、国家レベルではブッシュ前米大統領からオバマ大統領への路線変更が、また、個人レベルでは構造改革の旗振り役を 果たした著名な経済学者の転向の実例が見事に証明いたしました。

6.国連倫理サミットの開催と地球倫理国際日の創設

 2010年8月、バーゼルで開催された核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の世界大会に「後援委員」として出席し、「究極の破局を未然に防ぐために」 と題する講演を行った結果、同医師会議の支援のもとに国連倫理サミットの開催と地球倫理国際日の創設を訴えております。
 ダイス国連総会議長(元スイス大統領)が昨年10月来日した際面会しモラル・サポートが得られております。同サミットがオバマ大統領の核廃絶の理念とそ の前提条件である母性文明創設へ向けての具体的第一歩であることを指摘しておりましたが、今年1月、ルース駐日米大使よりこれを理解し評価するとともに、 このような努力が「核兵器のない世界に向かって力を合わせるというオバマ大統領の目標に向かうことの重要性を想起させるもの」として謝意を表明する書簡が 私宛に寄せられました.

 このたびの東日本大震災と福島原発事故は世界を変えていく可能性を秘めているだけに、倫理の欠如への対応をはじめ、母性文明への転換及び核廃絶実現への具体的決意表明の意義を有するこのイニシャチヴは日本にとっての恰好な発信案件であると確信いたします。
 私が理事を務める地球システム・倫理学会もこのほど緊急アピールを発出し、国連倫理サミットの開催と地球倫理国際日の創設を内外に幅広く訴え始めております。

7.哲学としての天の摂理:超自然の意志

 トインビーの予言がどういう背景でなされているかを考えると、天の摂理に思いが至ります。
 ここにいう「天の摂理」の意味は「哲学としての天の摂理」です。「宗教としての神の摂理」でもなければ、科学としての「自然の摂理」でもありません。 リーマンショック、これに伴う自動車のエコ化及び電化、メキシコ湾の原油流出事件など、人類と地球の存続を確保する方向で「天の摂理」が人間の能力を超え た事象をもたらすことを思い知らされます。
 天の摂理の「法則」とも言えるものは悠久の歴史から見出されると言えますが、若干例示すれば「盛者必衰の理」「絶対権力は絶対に腐敗する」「全ての人を いつまでも騙すことは不可能である」などを挙げることができます。偉大な歴史家のトインビーなればこそ、母性文化の潮流の誕生を予言し得たのでしょう.
 私は上述した昨年8月のバーゼルでの世界大会における講演で、天の摂理についての私の読みに立脚したものとして「核の大惨事の発生の可能性を憂慮せざる を得ません。このような究極の破局を未然に防ぐためにこそ人類の叡智を動員しなければならないのです」と述べました。この懸念は福島原発事故後、ゆるぎな い信念となり、東海大地震に脅かされている浜岡原発の運転停止実現に全力を投球しております。

8.結語

 トインビーがその出現を予言した母性文化の世界的潮流の中で、社会と個人レベルでは自然に対する科学技術の限界、知性と感性のバランスの必要性、哲学と 倫理の重要性といった視点が浮き彫りにされつつあります。また、国家レベルでは最近の中東、アフリカ、そしてアジアに見られるように、独裁と覇権の終焉と 地域統合という大きな流れが看取され出しております。これは既に始まっている政官財文化から地球市民文化へ移行する流れに沿うものと言えます。

 母性文化国家としての日本の世界への発信に大きな期待が寄せられます。

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